おばあちゃんの内閣総理大臣表彰
私の母方の祖母、羽島いくさんが100歳になりました。
要介護とはいえ、100歳の長寿はとってもとってもおめでたい話ではありませんか!医学の進歩、人類の進歩。本人と周りの踏ん張り頑張り。介護施設の素晴らしいスタッフの方々にも、感謝感謝。
この写真は、祖母の長男、つまり私の伯父が住んででいる神戸から六甲山を登った所にある、有馬温泉の施設で撮影されたものであります(シャレのつもり)。右の縞のTシャツを着ているのが、伯父の奥さんの羽島敦子さんです。ちなみに、小学三年生の時に戦後再建された渋谷忠犬ハチ公銅像の題字募集に応募し一等当選、そののびのびとした字が今の台座に刻まれた、才女です。その敦子さんの頭の向こうに、兵庫県知事さんからのお祝い状も見えます。
2つの世界大戦と関東大震災の時代も体験して、ずっと世の中を見つめ生き抜いてきたのですね。戦争中は祖父が中国大陸の鉄道施設の整備のために不在だったこともあり、女手一つで6人の子供達を育てました。敦子さん曰く、「病院の中では優等生、全く手がかからない(食事に関しては食べさせて頂いてますが)ので有名です。つまり毅然としていらっしゃいます。明治女ここにあり、武家の妻を髣髴とさせる佇まい、東北地方の我慢強さなど、今の時代には失われたものばかり、6人の子供達を立派に育て上げた母親の強さが介護される側の潔さに表れています」。
山形県上山の出身で、1945年3月10日未明の東京大空襲の真っ赤に焼けた空を浦和の自宅から見た羽島一家が3月14日に疎開したのも、彼の地でした。私も孫として、祖母の生まれ故郷の山形の気風を、知らず知らずに教えられてきたのでしょう。ずんだもちや干し柿など、山形の味覚も小さい頃からよく浦和で頂きました。そのようなわけで、山形交響楽団にR. シュトラウスのオーボエ協奏曲でお邪魔したときも、なんだかここに以前来たことがあるような、すごく懐かしい気分になったのです。どうにかして上山の吊るした房状態の干し柿を入手してベルリンに持ち帰りたいと地元の方に言いましたら、よくそんなものを知っているねと、喜ばれました。ただ、おばあちゃんが毅然としているのに、2世代下った孫の私は全然毅然としていません。困ったものです・・・。
私のDNAの1/4は祖母から受け継いだものの筈ですから、長生きできるのでは?と期待しています。この歳までは毎日オーボエの練習ばかりで人生を楽しんでいませんので、長生きして後で取り返さなくてはいけない、とマジに考えているのです。